どこの本で読んだか忘れてしまったが、牛の胃の中の滞留物で作る鍋があると知って以来、ずっと気になっていた。
比較的最近では「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをやり、それを面白おかしく書く」ことをモットーとされているノンフィクション作家の高野秀行さんが、羊の胃の中の滞留物で作る羊瘪(ヤンビエ)を紹介していたことが記憶に新しい。
これらはともに、貴州省や広西チワン族自治区などに住む侗(トン)族の郷土料理である。羊は羊瘪(ヤンビエ)、牛を使えば牛瘪(ニウビエ:niúbiē)と呼ばれる。
材料が材料なので、暗黒鍋とか牛糞鍋とか、ネットでおもしろおかしく書かれていることもあるが、侗族にとって牛瘪は伝統食として暮らしに根付いてきた。例えば子供が生まれたお祝いの宴や、誰かが亡くなった時に開かれる会食など、行事や祭事には欠かせない。
この食習慣に惹かれ、何度か牛瘪を食べたことがあるが、私の目にもっとも焼き付いているのは、侗族最大の集落である肇興村での出来事だ。
その日は偶々、村で生まれた子供が生後1か月を無事に迎えたお祝いの日。夕方になると村人が鼓楼の下の広場に集い、部落の皆で食事をする場に出くわしたことがある。そこには、炒め物や煮物に交じり、牛瘪があった。
はじめての牛瘪(ニウビエ)。
そんな牛瘪を初めて食べたのは、貴州省凯里市にある専門店だった。
偶然というかうっかりしていたというか、私はこのとき同行した友人たちにどこで何を食べるか、一切知らせていなかった。だからだろう。グリーンカレーのようなビジュアルの鍋が出てきたとき、「わぁ、これはなに?」と皆は「うきっ」としていたのだった。
ところが鍋に火が入り、汁が温まり、湯気とともに牧場の香りがふわりと広がると、「うきっ」とした空気は一変。鍋汁が泡立ち始めるとともに、皆の表情がこわばり始める。
「これなーんだ?」
不穏な空気を一変させようと、クイズを出してみた。すると好奇心旺盛だが保守舌の友人Pが「牛糞!牛糞!」と連呼。意外といいセンかもしれない。でもここで「惜しい、近い!」と認めたら、この後どんな暴動が起こるかわからない。
おもしろいもので、牛糞ではないとわかると、人はさらにすごいものを思いつくものだ。近所に住む同級生の友人Yは、ひと呼吸置いて、閃いたかのように言った。
「下からじゃなければ、上からだ…!」
そしてYは、意を決したようにおたま片手に立ち上がる。仮にこれが牛の嘔吐物だとしても、食べようとするのが彼女の凄いところ。この時点で、Pは「この人は私に牛糞を食べさせようとしています!酷い!」と涙を流していた。「いや、違う。なぜわざわざ糞を!」といっても、走り出した心はもう止まらない。
牛瘪(ニウビエ)は、牛の青汁。
そんな牛瘪の正体はというと、牛の第一胃袋の中で半分消化した牧草を、鍋の汁にしたものだ(調理してもしなくても牛瘪と呼ばれる)。
第一胃袋は、焼き肉の部位だとミノである。そのミノで消化した…というと、胃液の酸味を想像するかもしれないが、牛が胃液を出すのは第四胃袋であり、実はそれそのものにまったく酸味はない。
何よりこの料理のポイントは、牛が牧草を食べて育っているという点にある。それっぽい言い方をすれば、グラスフェッドのビーフなのだ。しかもその内臓の中のものは、抜群に鮮度がいい。
店の方に尋ねると、牛は屠畜12時間前から飲まず食わずの状態にし、朝に捌かれる。そこで肉や内臓、牛瘪を取り出し、店に運ばれるのは昼前というスピード。(ちなみに屠畜前の牛に水やエサを与えないのは日本も同様)。
店では半分草交じりの滞留物をギュッと絞って繊維を取り除き、牛の胆汁や垂油子(ツイヨウズ)と呼ばれる苦味のあるハーブ、にんにくや生姜を加えてスープにする。それで牛肉を煮込めば、料理としての牛瘪のできあがりだ。
店の方が言うことには、凯里の店には1日12組ほど来店があり、遠くは深圳から飛行機に乗って食べに来たり、持ち帰る客もいるという。そう聞くと、俄然気になるのが「調理前の牛瘪はどんな風になっているのか?」ということだ。
鮮度抜群!肇興村の牛瘪(ニウビエ)。
そこで向かったのが、貴州省東南部にある中国最大の侗族の集落・肇興(ジャオシン:zhào xīng)村である。
そしてそれは、村の市場で簡単に見つけられた。
調理前の状態はミキサーで半分挽いた野草に近く、繊維がところどころ残ったナチュラルな風合い。個体によって色や香りに差がある。
それにしても、なぜこのようなものを食べるのか。村で侗族料理のレストランで経営する陸さんはこう話す。
「牛が大自然の中で自ら選んで食べているものなら、人間の身体にもよいものだ、という考えがあるんです」。
そして今でこそ鍋料理だが、もともとは料理ではなく、解毒や胃腸機能の改善のために飲む漢方薬的なものでもあった。聞けば、80歳を超す陸さんの母上は、かつては汁だけ絞って飲んでいたという。牛瘪には百草湯の異名があるが、そのルーツを感じさせる呼び名である。
どこまで滞留物を入れるか?それが問題だ。
もうひとつ興味深いことは、同じ牛瘪でも、地域によって風味が異なるということだった。初めて食べた凯里市では、皆を戦慄させた牧場の匂いが強かったが、肇興村ではそれがなかった。どちらも作り方は大差なく、胆汁と垂油子を加えているため苦味はあるが、あの匂いの有無で印象はだいぶ違う。
陸さん曰く、凯里市近郊の牛瘪は、肇興村と凯里市の間に位置する榕江や从江あたりから運ばれており、その界隈では小腸の中まで入れるところがあるので、匂いがしたのではないか?と言う。
となると、凯里でも小腸の中を入れなければ臭くないのだろうか? 私は初めて食べたあの店に「必ず第一胃袋の中のものだけで作ってください。小腸の中身は入れないでください、何卒!」とリクエストし、再び訪れる約束をした。
するとどうだろう。鍋になる前の‟生の牛瘪”はほのかに牧場の香りがするものの、料理になると匂いは気にならない。一緒に食べた皆も「これならいける!」とぺろり。鮮度と個体差と、中国あるあるではあるが、お願いの仕方にもよるのかもしれない。
しかし、私と一緒に初めて牛瘪を食べた仲間たちは、まだ牛瘪の呪縛から解き放たれてはいない。泣きだしたPに至っては、憎さ余って愛しさ100倍、ことあるごとに牛瘪牛瘪とうなされている。これはまたリベンジに行かねばあるまい。
凯里市内で牛瘪を食べる場合は、基本的に専門店での提供となる。一方、侗族の本拠地ともいうべき肇興村では、侗族料理専門店で、メニューのひとつとして牛瘪を出しているところが多い。小鍋で提供しているところもあり、2人でも十分食べられる量だ。
2019年6月発売『中國紀行CKRM Vol.16 貴州—山岳民族の文化と発酵』p36~41で肇興村の牛瘪について紹介しています。
この記事の場所
凯里市
肇興村
サトタカ(佐藤貴子)
食と旅を中心としたコンテンツ企画、編集、執筆、監修、コーディネートなどを手掛ける。10代でフランス菓子の再現にハマり、20代後半で中華食材の多様性にハマり、30代で中国郷土料理の沼にハマる。中華がわかるウェブマガジン『80C(ハオチー)』ディレクター。中華圏を胃袋目線で旅する『ROUNDTABLE』主宰(当サイト)。東洋医学を胃袋で学ぶ『古月漢満堂』企画など。