これまで培ってきた、自分の基準や感覚そのものを揺るがす味と香りが、貴州省にはいくつかある。凱里市雷山県の名物、苗(ミャオ)族に伝わるアンタンもそのひとつだ。
アンタンはもともと苗族の言葉であり、中国語(漢字)に置き換えた場合、腌湯(腌汤|yān tāng)となる。
腌は「漬ける」という意味なので、平たく言うと、腌湯は「何かを漬けた汁物」だ。
私がその字面からイメージしたのは、川魚などを漬け込んだものをスープで割った鍋料理。しかしこれが、想像の斜め上を行く発酵食品だった。
驚くほどにモツが、肉が、さっぱりと食べられる!
なにより驚いたのは、その匂いである。
だいたい、店に到達する50m前から、周辺一帯に匂いが漂っているのだ。腐敗臭とはまた違うが、そこに至る一歩手前のような匂い。ふくよかで、ほのかな酸があり、言いようによってはフルーティー。食欲を損なわない表現をすれば、実に有機的な香りだ。
そして、口にして再び驚いた。この汁でモツや肉を煮ると、驚くほどさっぱりと食べられる。
特に抜群の相性を見せたのがモツ。そのの中でも豚の大腸は格別だった。
これを強烈な臭気とともに口に運ぶとどうだろう。口の中で踊るようなフレッシュなモツの食感と、内臓独特の風味と、爽やかながら奥行きのある臭旨スープが手を取り合ってひとつになって、唯一無二のおいしさへと昇華しているではないか。
モツの臭みをアンタンの臭さが制しているのかというとそうではない。スープに効かせた白胡椒のパンチのある香りもまた、モツの風味を生かす一助となっていた。
さらに脂肪たっぷりの豚バラ肉も、その脂っこさを全く感じさせない。むしろさっぱりとしていくらでも食べられる。
野菜類では、茄子や南瓜(直訳するとカボチャ。実際は丸型ズッキーニのような野菜)が定番の具。これらは臭旨な汁を吸わせておいしくしてやろうというという魂胆だ。
こうして鍋も中盤に差し掛かったころ、臭さも忘れて鍋に夢中になっていた私たちは、大事なことを思い出した。
「そういえば、この鍋ってなにで作られてるんだろうねえ?」
いろいろ驚きに満ちたこの鍋だが、原料を聞いてまた驚いた。
何を漬けたらこんな匂いに?腌湯の正体。
なんと、蕨(わらび)に塩を入れ、水を加えて乳酸発酵させたものが鍋の素になっていたのだ。
あまり詳しく教えてもらえなかったのだが、この土地の井戸水で作るのが決め手だとか。原液を見せてもらったが、底の方は何かの汚水のようであり、上の方はクリーム色がかった乳白色だった。
日本で蕨というと、灰汁を抜いて煮物やおひたしにすることが多いが、まさか、その蕨がここまで臭くなれるとは…。
ちなみに、この原液を水で割った凉菜(熱くない料理)もあったが、こちらは加熱していないからか、匂いも立たず、水キムチに近いものだった。まあ、匂いは鍋に消されていただけかもしれない。
のちに企画した「ニューヒナベパラダイスin貴州 TOUR 2019」でご一緒した友人Aくんが、Facebookにポストしていたコメントが言い得て妙だったので引用させていただく。
店の外まで公衆トイレ以上の強烈な臭気を放っており、店に入ると思わず息を止めてのけぞるほど。味もそのまんまの感じですが、鼻が慣れてくると不思議とパクパク食えるのであった…
事実、彼の言う通り、人間の適応能力はなかなかのものだ。
なぜなら、臭いといっていたのは皆最初だけ。気づけば臭気の湯気に囲まれて、すっかりアンタンとモツが織り成す妙味に没頭していた。これもまた、貴州省に住む、乳酸菌という名の妖精の仕業であろう。
なお、バスに戻るや否や、運転手に「くさっ!」と顔をしかめられて我に返った。服は気づかぬうちに匂いを吸い込むので、なんなら最初から着ないという選択肢もありかもしれない。
貴州省において、蕨を発酵させた食品は、アンタン以外にもいくつかあるが、加熱して突き抜けた匂いを放つのはアンタンのみと思われる。スープの白胡椒の効かせ方は、訪れた時によって若干違いがあるが、白胡椒が効いていた方が、よりスープの匂いも増すようである。
ちなみに帰国後、自宅でこのアンタンを再現し、〆にごはんを投入したところ、ゴルゴンゾーラチーズで作った雑炊のような風味に着地した。
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サトタカ(佐藤貴子)
食と旅を中心としたコンテンツ企画、編集、執筆、監修、コーディネートなどを手掛ける。10代でフランス菓子の再現にハマり、20代後半で中華食材の多様性にハマり、30代で中国郷土料理の沼にハマる。中華がわかるウェブマガジン『80C(ハオチー)』ディレクター。中華圏を胃袋目線で旅する『ROUNDTABLE』主宰(当サイト)。東洋医学を胃袋で学ぶ『古月漢満堂』企画など。